みなさん、渋谷で働いてたり、遊んでたりして意外と知らずにいるのが渋谷の歴史ですよね?
そこで普段、気にもとめない渋谷の歩みをまとめてみました。
先史時代~
渋谷区には、先史時代の遺跡が30数カ所発見されていますが、現在その姿をとどめているのは数カ所程度です。
当時の渋谷は、台地部分が海面から頭を出していた程度で、縄文時代、人々は丘の上で生活を営んでいたのでしょう。
原始時代は、古墳の築造が盛んに行われ、円墳と横穴墳が発見されています。
奈良・平安時代~鎌倉・室町・戦国時代
当時の武蔵野は茫漠たる大荒原で、渋谷の地もそこに住む人々の炊煙がかすかになびくのみであっ たと思われます。
平安時代末期の武家勃興のころは、渋谷氏(渋谷金王丸常光)を中心とする源氏諸将の伝説が、社寺や地名として残っています。
平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、この付近を本拠としていた武将渋谷氏の活動の記録が残されており、その一族に河内源氏の源義朝の近従だった渋谷金王丸が有名です。
南北朝時代から室町時代にかけて、渋谷・原宿が次第に開拓され、後北条氏全盛時代には 下渋谷・原宿・千駄ヶ谷・幡ヶ谷に村落が発達しました。
徳川時代には下渋谷・原宿はいわゆる江戸御府内に属し、もっとも開けた存在でした。
江戸時代
江戸時代の渋谷は、諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治。
渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家があり江戸市街の繁昌にともない、江戸の郊外地として代官や村役人の支配をうけ、人々は名主の絶大な権力と五人組の連帯責任の中で生活していました。
渋谷区の確立
行政区画としての渋谷区は、慶応4年政体書の発布から、明治11年郡区町村編制法により、南豊島郡に包括されるまでの間、武蔵県、武蔵県および東京府、小管県および東京府、品川県および東京府、朱印外1区などと、はなはだしい時は毎月変更されるほど改正が行われま明治22年市制町村制の施行により、上渋谷・中渋谷・下渋谷の3村を中心に麻布・赤坂両区の一部を加えて渋谷村に、代々木・幡ヶ谷の両村で代々幡村に、千駄ヶ谷・原宿・穏田の3村で千駄ヶ谷村となりました。
明治29年南豊島郡は東多摩郡と合併、豊多摩郡が生まれ、渋谷3村もその下に引きつがれ明治40年には、住宅地として発展しつづけた千駄ヶ谷村が他にさきがけて町制を実施し同42年には戸数8,954、人口35,191を擁して渋谷村が町制を実施、大正4年には代々幡村も町制を施行しました。
昭和~
昭和7年10月1日、渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併し、東京市渋谷区が成立、他の79町村とともに大東京35区の一環として誕生し、第2次世界大戦に突入後、昭和18年戦時態勢の強化に伴う都制の施行
昭和27年9月、地方自治法の改正により、特別区は都の内部的構成団体として、法令により制限された事務と、都条例に決められた事務を処理する”制 限自治区”として規制
商業が主要産業の渋谷区は、戦後の復興も渋谷駅から道玄坂を中心に始まりました。
昭和30年ごろを境にして高層ビルが続々建設され、商業地区に加えて業務地区といわれるオフィス街が生まれ副都心化が進みました。
昭和39年のオリンピック東京大会を契機として、道路の新設や拡張があいつぎ、渋谷区の街並みは大きく変わりました。
昭和40年には渋谷区総合庁舎や渋谷公会堂が完成。
渋谷区の 人口は、都市化の影響をうけ漸減している反面、渋谷駅周辺を始めとして商業地区・業務地区が拡大
セゾン系列の西武百貨店が1968年(昭和43年)に渋谷へ進出した事を皮切りに、続く1973年のパルコ開店に因って以後、東急と西武による開発競争で渋谷駅周辺や原宿界隈は、ファッション関係の店舗や百貨店などの新しいビルが次々につくられ、多くの人々が集まる一方、若者の街として今日に至ります。
渋谷区コミュニティバス 「ハチ公バス」
渋谷区では、区役所と区施設を気軽に移動する手段として、みなさんに親しまれ、愛されるコミュニティバスを運行しています。
バスは、小型ノンステップバスで、車イスの人も乗車することができます。
バスの愛称は、渋谷のシンボルとして親しまれ、安全・確実に送り届けるやさしいイメージのある「ハチ公バス」です。
